赤・白・赤の横三色、その中央に緑のレバノン杉。レバノンの国旗、中東の地中海沿岸の国の旗です。樹木そのものをメインモチーフに据えた、世界でも稀な国旗です。そしてレバノン杉は聖書に72回登場する、5000年の歴史を持つ神聖な木であり、世界の国旗のなかで最も古い文化的シンボルのひとつを継承した1枚です。今回はそんなレバノン国旗の話です。
まずは構成のおさらい
レバノン国旗の構成は、次のとおりです。
- 横3本の帯(上から):赤・白(広め)・赤
- 白い帯の中央:緑のレバノン杉(Cedrus libani)
色とシンボルの意味は、以下のとおりです。
- 赤:侵略者から国を守るために流された血、勇気
- 白:純粋さ、平和、レバノン山脈の雪
- 緑の杉:聖性、永遠、不屈、生命
地中海の山と海、そして5000年の杉の木という、世界で最もシンボリックな国旗のひとつです。
「レバノン杉」 ── 5000年の聖なる木
レバノン国旗の中心にある、レバノン杉(Cedrus libani)について見ていきます。
聖書の杉
レバノン杉は聖書に72回も登場する、世界で最も神聖な木のひとつです。ソロモン王の神殿(エルサレム神殿)の建設材として使われ、詩篇92:12には「正しい人はナツメヤシの木のように茂り、レバノンの杉のように育つ」と記されています。アブラハム、ダビデ王、イザヤなど、聖書全体で繰り返し言及されています。
フェニキア文明の木材
そしてレバノン杉は、フェニキア人の貿易の中心でもありました。紀元前3000年から、フェニキア人はレバノン杉で船を作り、エジプトのファラオやメソポタミア、ギリシア、ローマに輸出しました。ピラミッドやヒエログリフにも、杉の記録が残されています。
ギルガメシュ叙事詩
古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩(紀元前2100年頃)にも、ギルガメシュがレバノン杉の森を訪れる場面があります。人類最古の文学作品に登場する、5000年の歴史を持つ唯一の国旗シンボルです。アステカ(メキシコ)の建国予言が1325年、ピアスト(ポーランド)の白鷲が10世紀であるのに対し、レバノン杉は5000年以上の歴史を持っています。
「神々の木」
レバノン杉は、文化的にも特別な位置づけにありました。ギルガメシュ叙事詩ではフンババ(杉の森の守護神)が、エジプト神話ではオシリスの棺が、ローマ神話では神々の住む森が、それぞれ杉と結びついています。
国旗の杉は、5000年の神聖な伝統そのものを表しているのです。
1943年12月7日 ── フランスからの独立
レバノン国旗の、現代の誕生を見ていきます。
「グレーター・レバノン」
レバノンは、1920年から1943年まで、フランス委任統治領「グレーター・レバノン」でした。第一次大戦後、オスマン帝国からフランスの統治下に移り、当時の国旗はフランス三色旗の中央に杉を配したものでした。
1943年11月、独立宣言
そして1943年11月11日、レバノン国会はフランス委任統治の終結を一方的に宣言します。これに対し、フランスは議員の多数を逮捕しました。
「7人の議員」と新国旗
しかし1943年11月11日、レバノン国会では7人の議員が秘密会を開きます。彼らはその場で新国旗を考案・決定しました。赤・白・赤に杉という、現代版の原型です。フランス占領下、議会で急ピッチに作られた国旗という、緊迫した誕生物語です。
1943年11月22日、独立
そして1943年11月22日、フランスが正式に独立を承認し、レバノン共和国が成立します。この日が「独立記念日」となりました。
1943年12月7日、国旗法
さらに1943年12月7日、新国旗が正式に制定されました。赤・白・赤に杉のデザインで、以後、現代まで基本構造は変わっていません。
1990年、杉の色を標準化
そして1990年9月21日、杉の色が完全に緑に統一されました。以前は茶色と緑などを組み合わせた複雑なデザインでしたが、シンプルに整えられたのです。
「赤白赤」 ── レバノンの戦士
レバノン国旗の、赤と白について見ていきます。
上下の赤い帯
上下の赤い帯は、侵略者から国を守るために流された血を表します。数千年の歴史のなかで、レバノンはアッシリア、バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマ、アラブ、オスマン、フランスなど、多くの帝国の侵略を受けてきました。まさに侵略と血の歴史です。
中央の白い帯
中央の白い帯は、レバノン山脈の雪を表します。「Lebanon」という国名はアラム語で「白」を意味し、レバノン山脈の冬の雪を象徴しています。つまり白い帯は、国名の語源そのものなのです。
国名が雪を意味し、国旗の白も雪を表すという、直接的な対応になっています。
レバノンという国
レバノンの基本情報です。
- 正式名:レバノン共和国(الجمهورية اللبنانية、Republic of Lebanon)
- 首都:ベイルート(Beirut)
- 面積:約1.04万km²
- 人口:約540万人
- 公用語:アラビア語
- 宗教:多宗教国家。イスラム教(約60%、シーア派とスンナ派)、キリスト教(約32%)、ドゥルーズ派(約5%)
「中東のスイス」?
レバノンは、かつて「中東のスイス」と呼ばれていました。多宗教共存の伝統があり、銀行業の中心でもありました。首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれ、東西の文化が交差する都市でした。
「18の公認宗教」
レバノンには、世界的に特異な政治制度があります。宗派制度(Confessionalism)と呼ばれるもので、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンナ派ムスリム、国会議長はシーア派ムスリムと、法律で規定されています。国会議席も宗派ごとに配分され、公認宗教は18にのぼります。1つの国に18の宗教が法律で認められるというのは、世界でレバノンだけの制度です。
「内戦と困難の歴史」
しかし、現代のレバノンは困難な状況にあります。1975年から1990年のレバノン内戦では、宗派間の戦争によって約12万人が死亡しました。2006年にはイスラエル・レバノン戦争でヒズボラとの対立があり、2020年8月4日のベイルート港爆発事件では約200人が死亡、3,000人以上が負傷しました。これは歴史上最大級の非核爆発のひとつです。さらに2019年以降の経済危機では、通貨価値が約98%も下落しました。
国旗の赤が表す侵略の血は、現代も流れ続けているという、悲しい現実があります。なお評価については諸説あり、政治的立場によって異なります。
「フェニキア文明の遺産」
レバノンは、フェニキア人の故郷でもあります。紀元前3000年から1000年にかけて地中海を支配した海洋民族で、アルファベットの発明や、紫色の染料(ティリアン・パープル)で知られます。ティルス、シドン、ビブロスなどの古代都市がありました。
国旗の杉は、フェニキア人の船の材料でもあったというのが、現代レバノンの誇りです。
「ベイルートの大学」
レバノンには、教育の伝統もあります。ベイルート・アメリカン大学(AUB、1866年)は中東最古の英語大学、ベイルート聖ヨセフ大学(1875年)は中東最古のフランス語大学です。ベイルートは、中東の知的中心と呼ばれてきました。
ちなみに:「失われた森」
レバノン杉の、現代の悲劇について見ていきます。
かつての杉の森
古代、レバノン山脈は杉の森で覆われていました。約7,500km²にもおよぶ広大な杉の森が広がり、古代世界の主要な木材供給地でした。
現代のレバノン杉
しかし5000年にわたる伐採で、杉の森はほぼ消失してしまいました。現在残るレバノン杉は約2,000ヘクタール(全盛期の1%以下)にすぎません。ブシャレ杉の森(Cedars of God)はユネスコ世界遺産に登録されていますが、国旗のシンボルである杉の実物は、絶滅寸前の状態です。
国旗に描かれた木が、現実には希少種になっているという、世界の国旗のなかでも稀な皮肉です。
まとめ:5000年の杉の木、聖書の国の旗
今回のレバノン国旗のまとめです。
- 赤・白(広め)・赤の横三色に、中央の緑のレバノン杉
- 1943年12月7日、現代版を正式制定
- 1943年11月11日、フランス占領下のレバノン国会で7人の議員が秘密会で考案
- 1943年11月22日、フランスから独立
- 1990年9月21日、杉の色を完全に緑に統一
- 赤(上下)=侵略者から国を守るために流された血、白=平和・レバノン山脈の雪、緑の杉=聖性・永遠
- レバノン杉は聖書に72回登場、ソロモン王の神殿の建設材
- 紀元前2100年のギルガメシュ叙事詩にも登場、5000年の歴史
- フェニキア人がレバノン杉で船を作り、エジプト・メソポタミアに輸出
- 国名「Lebanon」はアラム語で「白」、レバノン山脈の雪を意味する
- 1920-1943年はフランス委任統治領「グレーター・レバノン」
- 多宗教国家、18の公認宗教(イスラム・キリスト・ドゥルーズなど)
- 大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンナ派ムスリム、国会議長はシーア派ムスリム
- 1975-1990年のレバノン内戦で約12万人死亡
- 2020年8月4日のベイルート港爆発事件で約200人死亡(非核爆発として歴史上最大級)
- フェニキア人の故郷、アルファベットの発明地
- 国旗のレバノン杉は現実には絶滅寸前、約2,000ヘクタールのみ残存
5000年前のメソポタミアから、現代の国旗まで。レバノンの国旗は、世界で最も古い文化的シンボルを、現代の国家アイデンティティとして掲げた1枚です。