黒・赤・金の横三色。ドイツの国旗です。シンプルなデザインですが、この旗の背後には「自由・統一・民主主義を求める200年の戦い」という、ヨーロッパ近代史そのものといってもいい物語が詰まっています。ナチス時代には禁止され、戦後に復活した民主主義の旗でもあります。今回はそんなドイツ国旗の話。


まずは構成のおさらい

ドイツ国旗の構成は、次のとおりです。

  • 上から:黒・赤・金(黄)の3本横帯
  • 比率:3:5(横長)
  • 帯の幅:3本は均等幅

色の意味は、ドイツ連邦政府・連邦議会の公式説明によれば、黒・赤・金は3色合わせて自由・民主主義・統一を象徴します。19世紀の自由主義・民主主義運動(リュッツォウ義勇軍やハンバッハ祭)に由来する伝統色です。

色を1色ずつ意味付けるとすれば、19世紀の詩的表現として、

「黒い隷属の闇から、血の戦いを経て、自由の金の光へ(Aus der Schwärze der Knechtschaft, durch blutige Schlachten, zum goldenen Lichte der Freiheit)」

という解釈が定型的に伝わっています。ナチスや分断などの20世紀の負の歴史を当てはめる公式解釈は存在しません。3色全体が200年来のドイツ民主主義の象徴だ、というのが、現代の公式な位置づけです。


1813年、リュッツォウ義勇軍の制服から

黒・赤・金の起源は、19世紀初頭、ナポレオン戦争時代のリュッツォウ義勇軍(Lützowsches Freikorps)にあります。

ナポレオン支配下のドイツ

19世紀初頭、ドイツはまだ統一国家ではありませんでした。神聖ローマ帝国が1806年に解体された後、ナポレオンの支配下に入っていたのです。当時のドイツは多数の小国家・小公国に分裂し、ナポレオンが組織したライン同盟によってフランスの影響下に置かれていました。そうしたなかで、外国支配への反発として、ドイツ人の民族意識が高まっていきます。

そして1813年、解放戦争(Befreiungskriege)が起こります。プロイセン・オーストリア・ロシアなどがナポレオンに対抗して立ち上がった戦争でした。

リュッツォウ義勇軍

この時期に組織されたのが、アドルフ・フォン・リュッツォウ少佐率いるリュッツォウ義勇軍です。学生・知識人・芸術家などの志願兵が中心で、「自由なドイツ」を求める若者たちの集まりでした。詩人テオドール・ケルナーもメンバーのひとりです。

そして、彼らの制服こそがドイツ国旗の3色の起源でした。安価で実用的な染料で染めた黒い軍服に、赤い襟と袖章、そして金(真鍮)のボタンという組み合わせです。黒・赤・金は、最初は安い軍服に赤と金を足しただけという、極めて実用的な起源だったのです。

「制服の色」から「自由の色」へ

しかし、リュッツォウ義勇軍が「自由とドイツ統一を求める志願兵」として戦ったため、その制服の色が自由・民主主義・統一ドイツの象徴として意識されるようになります。戦後、義勇軍の元兵士たちが大学に戻り、ブルシェンシャフト(学生組合)で3色を採用しました。そして1817年のヴァルトブルク祭で、初めて「3色の旗」が公的に掲げられます。

安い軍服の色が、若者たちの理想の色になった、というシンボルの意味の転換が起こったわけです。


1832年、ハンバッハ祭 ── 旗の誕生

ドイツ3色旗が正式に「自由と統一の旗」として確立したのは、1832年5月27日のハンバッハ祭(Hambacher Fest)でした。

30,000人の民主化集会

1832年5月、プファルツ地方のハンバッハ城で、約3万人の市民・学生・知識人が集まり、ヨーロッパ最大規模の民主化要求集会が開かれました。掲げられた要求はドイツ統一・憲法制定・言論の自由です。当時のドイツは、39の小国家の緩い連合であるドイツ連邦であり、この集会はオーストリア・プロイセンの保守政治に対する抗議でもありました。

そして、この集会で掲げられたのが黒・赤・金の3色旗です。「Deutschlands Wiedergeburt(ドイツの再生)」というスローガンとともに、3色旗が民主化・自由・統一の公式シンボルとして認知されました。

ハンバッハ祭で、黒・赤・金は「ドイツ民主主義の旗」として確立しました。これがドイツ国旗の真の誕生日です。


1848年革命 ── 短い栄光

そして1848年、ヨーロッパ全土を席巻した1848年革命で、黒・赤・金の旗は初めて公式国旗になります。

三月革命

1848年3月、ドイツ各地で革命が起こりました。「三月革命」です。民衆が憲法制定・自由主義改革を要求し、各小国の政府が譲歩、ドイツ統一への動きが加速しました。

フランクフルト国民議会

そして1848年5月18日、フランクフルトの聖パウロ教会で、フランクフルト国民議会が開会します。ドイツ全土から選ばれた代議員500人以上が集まり、統一ドイツの憲法を制定することを目的としました。議場には、黒・赤・金の3色旗が掲げられています。

それに先立つ1848年3月9日、ドイツ連邦の連邦公会(Bundesversammlung、フランクフルトに置かれた連邦機関)が黒・赤・金を正式にドイツ連邦の旗として宣布しました。史上初めて、3色旗がドイツの公式国旗になったのです。

しかし革命は失敗

ところが1849年、革命は保守派の反撃で挫折します。フランクフルト国民議会は解散し、黒・赤・金の旗は再び反体制のシンボルに戻り、多くの民主派が亡命しました。

最初の公式期間は、わずか1年半という短い栄光でした。


1871年、ドイツ帝国 ── 「黒・白・赤」へ

ドイツが初めて統一国家になったのは、1871年1月18日のドイツ帝国の成立でした。

ビスマルクの帝国

プロイセン王国の宰相オットー・フォン・ビスマルクが主導し、1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争、1870〜71年の普仏戦争という3つの戦争でドイツを統一しました。そしてヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国を樹立します。

「黒・白・赤」の帝国旗

しかし、この帝国の国旗は黒・赤・金ではなく、黒・白・赤でした。プロイセン王国の色(黒白)にハンザ同盟の色(赤白)を組み合わせたもので、保守的・君主制的な統一を象徴し、黒・赤・金の民主主義的なドイツとは別の伝統に立つものです。

統一は果たしたが、自由主義者の旗は採用されなかった、というのが帝国時代の特徴でした。ビスマルクと保守派は、黒・赤・金を「革命的すぎる」として拒否したのです。

統一ドイツの旗と民主主義のドイツの旗は別物であるという、ドイツ近代史の根本的なねじれが、この時に生まれました。


1919年、ヴァイマル共和国 ── 復活

そして第一次世界大戦の敗戦で、1918年11月にドイツ帝国が崩壊します。ドイツ初の本格的な民主主義国家であるヴァイマル共和国が成立しました。

黒・赤・金の復活

1919年8月11日、ヴァイマル憲法第3条で「ドイツ国の旗は、黒・赤・金とする」と規定されました。70年ぶりに黒・赤・金が公式国旗に復活し、1848年フランクフルト国民議会の精神を継承する、民主主義の象徴としての3色旗となったのです。

民主主義の国には、民主主義の旗を、というメッセージでした。

「旗論争」

しかしヴァイマル時代、黒・赤・金の旗は、深く分裂した政治情勢の象徴でもありました。共和派・社会民主党は黒・赤・金を支持し、保守派・右派は帝国時代の黒・白・赤を支持して、「旗論争」(Flaggenstreit)が政治対立の中心になります。

国旗そのものが政治的対立の的になる、というのは、当時のドイツの不安定さを示しています。


1933-1945年、ナチス時代 ── 鉤十字

そして1933年1月、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を獲得します。ドイツ国旗の歴史で最も暗い時代が始まりました。

国旗の廃止

1933年3月、ナチス政権はヴァイマル時代の黒・赤・金を廃止し、代わりに黒・白・赤の帝国旗と鉤十字旗の二旗併用としました。さらに1935年9月15日のニュルンベルク法で鉤十字旗を唯一の国旗とし、黒・赤・金は反国家的シンボルとして禁止されます。

民主主義の旗が、独裁政権によって消された、という20世紀の悲劇のひとつです。

第二次世界大戦と敗戦

1939〜1945年の第二次世界大戦で、ナチス・ドイツは破滅的な敗北を喫しました。6,000万人以上の戦争犠牲者を出し、そのうちホロコーストでは約600万人のユダヤ人が虐殺されています。1945年5月8日にナチス・ドイツは降伏し、ドイツは連合国に分割占領されました。

そして鉤十字旗・帝国旗は完全に禁止され、現在もナチス・シンボルの公的使用は犯罪として刑法で罰せられます。


1949年5月23日 ── 民主主義の旗、再び

戦後、1949年5月23日にドイツ連邦共和国(西ドイツ)基本法が施行されました。

基本法第22条

ドイツ連邦共和国基本法第22条第1項は、次のように定めています。

「連邦の旗は、黒・赤・金とする(Die Bundesflagge ist schwarz-rot-gold)」

(第2項は1990年の統一後に追加された「ドイツの首都はベルリンとする」の規定です。)

ヴァイマル時代と同じ、黒・赤・金の3色旗が正式国旗となりました。

「民主主義への意思表示」

この選択には、明確な意味がありました。ナチス・帝国時代の黒・白・赤を完全に拒否し、1848年・1919年の民主主義の伝統を継承する。それは、新しい西ドイツが民主主義国家であることの宣言でした。

国旗の選択そのものが国家の性格を決める、という、戦後ドイツの強い意志だったのです。

東ドイツも同じ3色

意外にも、ドイツ民主共和国(東ドイツ)も、同じ黒・赤・金の3色旗を採用しました。1949年10月7日に東ドイツが成立し、その国旗も黒・赤・金でした。1959年からは、中央に共産主義のシンボル(ハンマー・コンパス・麦穂)が追加されています。

東西ドイツが同じ3色旗を共有していた、という事実は、ドイツ統一のシンボルとしての性格が、分断時代も残っていたことを物語ります。

1990年、東西統一

そして1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、1990年10月3日に東西ドイツが統一されます。東ドイツは統一に先立ち、1990年5月31日に人民議会の決定で国旗から中央の社会主義紋章を撤去し、統一を待たずに西ドイツと同じ黒・赤・金の旗を掲げていました。1990年10月3日の統一後、黒・赤・金の3色旗が統一ドイツの国旗となり、以来、黒・赤・金は統一ドイツの旗となっています。

自由主義・民主主義・統一の旗が、200年かけて最終的に勝った、という長い歴史の到達点です。


ちなみに:「金」か「黄」か論争

ドイツ国旗の3色目は、正式名称は「金(Gold)」ですが、実際の旗には「黄(Gelb)」を使う、というちょっと不思議な慣習があります。基本法上の表記は「Schwarz-Rot-Gold」(黒・赤・金)ですが、製造される旗はほぼ全て黄色の布で、金色の布は通常使われません。

その理由は、金属の金色を布で表現するのが技術的に困難であること、強い直射日光下では金色が変色しやすいこと、そして黄色の方が視認性が高いことにあります。

名前は「金」、実物は「黄」という、世界の国旗の中でも珍しい呼称と実物のズレです。スペイン国旗の「黄」も、同じく古くは「金」と呼ばれていたという共通性もあります。


ちなみに:ドイツ語の「Schwarz-Rot-Gold」

ドイツ国旗の3色を表す「Schwarz-Rot-Gold」(黒-赤-金)という言葉は、ドイツ語で「民主主義」「自由」「統一ドイツ」を意味するキーフレーズです。政治演説で頻繁に使われ、「Schwarz-Rot-Goldの価値観」といえば民主主義的価値観を指します。サッカーW杯では、応援グッズの定番色でもあります。

国旗の色が、そのまま政治的価値観の代名詞になっているというのは、世界の国旗のなかでも珍しい現象です。ドイツ人にとって、3色は単なる旗ではなく、民主主義の精神そのものを表すわけです。


まとめ:200年かけて確立した、自由主義の旗

今回のドイツ国旗まとめ。

  • 黒・赤・金(実際は黄)の横三色(3:5)
  • 1813年リュッツォウ義勇軍の制服(黒い軍服+赤襟+金ボタン)が起源
  • 1817年ヴァルトブルク祭で学生組合が採用
  • 1832年ハンバッハ祭(3万人の民主化集会)で「自由と統一の旗」として確立
  • 1848年3月9日、ドイツ連邦の連邦公会(Bundesversammlung)が初めて公式国旗に採用(フランクフルト国民議会)
  • 1849年革命挫折で公式国旗の地位を失う
  • 1871-1918年のドイツ帝国(ビスマルク)は黒・白・赤を採用
  • 1919年8月11日、ヴァイマル憲法第3条で黒・赤・金が国旗に復活
  • 1933-1945年のナチス時代は完全禁止、鉤十字旗に置換
  • 1949年5月23日、ドイツ連邦共和国基本法第22条第1項で再び正式国旗に
  • 東ドイツも同じ3色旗(1959年から中央に共産主義シンボル追加)、1990年5月31日に紋章を撤去して西と同じデザインに
  • 1990年10月3日の東西統一後、黒・赤・金の3色旗が統一ドイツの国旗に
  • 連邦政府の公式解釈は「3色合わせて自由・民主主義・統一」(黒=過去の闇、赤=血、金=未来の光は19世紀の詩的表現由来)
  • 「Schwarz-Rot-Gold」は今もドイツ民主主義の代名詞

200年かけて、民主主義の旗が最終的に勝った。ドイツの国旗は、19世紀の理想が、20世紀の悲劇を経て、21世紀に統一ドイツの象徴として実現したという、ヨーロッパ近代史そのものを背負った1枚です。